少し自分の和楽器との出会いを簡単ではあるがここに書いておく。
30年前はまだ若者が和楽器を演奏するなど、なかなか聞かない時代でもあった。その中でひょんな出会いから和太鼓と出会うことになる。1969年頃に、佐渡ヶ島で田耕氏が創設した鬼太鼓座。のちに鼓童になり、林英哲氏など多くの和太鼓奏者が世に出ることになる。その座に1988年から12年間、棲んでいた。入座は18歳のときだ。
音楽が常にあった
僕は音楽を奏でることが日常の家庭に5人兄弟の末っ子の双子として産まれた。1969年12月25日産まれ。長男は関西で和太鼓奏者として「時勝矢一路」として活動している。彼は大阪芸大で打楽器奏者として優秀な人材であった。ピアノもギターも天才的なセンスをもつ。姉の井上真実はフルートをしていたが、兄の影響で篠笛奏者となり、関西で篠笛奏者として活躍している。次男の井上信太は、ドラムも和太鼓も経験したが、いまは美術家として京都を本拠地にして海外でも能舞台を軸に空間演出をしている。
そんな3人の兄弟がいる。僕ら双子といえば、高校生のころはロックにはまり、公平はギター、僕はベースでかなりライブ活動をしていたが、これもまた兄の影響で和太鼓を始めることになる。
その時は突然訪れる
きっかけは1988年のカルガリーオリンピック。そこで鬼太鼓座が海外遠征をするということで、荷物持ちでいいから来いとの兄からの連絡。初の海外、初の飛行機に乗れるというそれだけで、鬼太鼓座が合宿していた熱海へ行くことになる。当時、長髪のふたりは鬼太鼓座のことはほとんど知らずに、その門をくぐることになる。入座するつもりもなく、海外旅行気分であった。高校3年生の冬休みを利用して、合宿所へ着いて3日後になんと9人のメンバーのうち、5人の座員がやめることになる。そこから和太鼓奏者への道に転がり出すとは知る由もなかった。
カナダの海外公演が迫るなか、急遽、兄から頼まれて、和太鼓を叩くことになった。それゆえに長髪も切った。猛練習の末に、一ヶ月後にカナダの地へ行くことになった。その時、まさか和太鼓が世界で、猛烈にウケるとは信じられなかったが、海外での反応はロックコンサートの有様だった。いま思えば、数週間の練習で、そんな太鼓への志もないなか、ステージに立つということはありえないのだが、当時は流れに身を任せるしかなかったのだ。モントリオール、カルガリー、エドモントンでも公演を無事に終えて、帰国した。そして高校卒業式の翌日に公平とふたりで鬼太鼓座へ行くことになる。そこから12年の歳月が怒涛のように始まったのだ。
熱く、輝く、熱狂の時代
熱海ではニューフジヤホテルが全盛のころ、毎日2000人の観客がステージを楽しむショーがある。そこで半年間後には鬼太鼓座が演奏をすることがすでに決まっていた。ショーは外国人ダンサーが何十人も踊る、いわゆるラスベガスショーのなかに、演歌歌手が歌い、鬼太鼓座がメインで演奏するその当時にしたらかなり攻めた内容であった。主催をするホテル側の演出家はラスベガスに精通しているらしく、鬼太鼓座を本場アメリカでのショービジネスへ送り込むことも視野にいれての始まりだった。
メンバーも集まりだし、10人ほどになったと思う。そこで半年の稽古の末に、毎日2回の公演がはじまった。2000人を収容するパーティー会場は連日、満杯。それはそれはあの時代の日本の繁栄がそこにあった。半年の予定が、1年に伸びるほど、そこでは人気のショーになっていった。あのストイックな鬼太鼓座が、ビキニの水着を纏った孔雀の羽が背中につける外国人のダンサーの衣装とともに、和太鼓がショービジネスへ入り込んだ最初の出来事であったと思う。そこには数年後に世界的に有名になった和太鼓チーム「TAO」を創設するメンバーも含まれていた。
その創設者の吉村さんは、いまは在籍していないが、当時からラスベガスのショーを目指すグループを作りたいと夢があった。「TAO」の名付け親は、ロケット工学の父と呼ばれた糸川英夫。すでに熱海のショーで鬼太鼓座と知り合い、深いお付き合いが始まっていた。その「TAO」と命名されたときも、僕は現場の長野県丸子町にある糸川先生の家にいたことを想い出す。「道」とかいて中国語で「タオ」と糸川博士は命名されたのだ。いまはもう世界的な和太鼓グループに成長している。
全てを捧げ磨き上げた時代
そして一年間の熱海のショーが終わり、それからの2年間は名古屋各地の合宿所をまわった。当時は、朝5時に起き10キロから15キロ。朝食後には和太鼓の練習、夕方からは20キロから30キロのランニングが日常だった。公演があり徹夜で車で帰ってきても走るという嘘みたいな話だが、ほんとにそうなのだ。
当時オツオリさんというアフリカから来ていた山梨学園大学のマラソン部といっしょに走り、僕たちは車山高原で皿洗いをしながら合宿をしたり、今は亡き、小出監督に見いだされたシドニーオリンピック金メダリストであるキューちゃんこと高橋 尚子さんや、バルセロナで銀、アトランタオリンピック銅メダルリストの有森 裕子さんなども、そこで合宿していたのを思い出す。なぜ高橋尚子さんのあだ名がキューちゃんになったかは、合宿所の余興で全身にサランラップを巻いてキューちゃんの歌を歌ったという逸話など、小出監督のお話もたくさん聞かせてもらったなっと。
この頃の鬼太鼓座は太鼓の練習より、走ることのほうが多く、肉体的に辛かった。体のケアやマッサージなども知らない状態で、極限まで身体を追い詰めていた。そのおかげか、フルマラソンは2時間40分台を出せるぐらいになっていた。しかし、今思えば怪我もなく12年間を過ごせたのは幸運としかいえない。なぜそこまでランニングを主体としていたかは、アメリカを3年かけてマラソンで1周するという鬼太鼓座の計画があったからだ。走破した距離、1万5千キロ。そのことは僕の3冊の本があるなかの1冊目の「鬼太鼓座、アメリカを走る」(青弓社)に書いてあるので、興味があれば探してみてください。
この時代、ニューヨークのカーネギーホールでも4回の公演をしたり、たくさんの経験をしてきた。また上海から香港、そして昆明市までの4000キロを走ったりもした。そんな僕らは18歳から30歳まで青春の全てを鬼太鼓座に捧げたと控えめに言っても、それは嘘ではない。言うなれば、在籍していた12年間のすべての時間を鬼太鼓座に捧げたと思っている。1999年の終わりに、田耕氏から独立しなさいとの訓を受け、座を離れることになる。新宿文化センターでの公演が最後であった。初めて大太鼓ソロの演奏に納得出来た瞬間でもあった。そして公平とふたりでAUNを結成することに繋がって行く。
節目、新たなる道へ
2000年の節目、年齢でいうと30歳の節目であった。阿吽の呼吸から、AUNと名付けて、見知らぬ東京で活動していくことになる。まだこのときは和楽器といっしょに演奏するなど考えもしなかった。西洋楽器でのコラボや、エレクトロニクスとの融合したアルバムをリリースしたりして、音楽事務所に在籍しながら、音楽活動していく。またニューヨークに1年半ほど住みながら、音楽活動も経験した。
そんな中、7年間、在籍した事務所を離れることになるのだ。そして、この仕事を続けられるかの瀬戸際に立たされることになる。そのことがきっかけでAUN J クラシック オーケストラを作ることになるとは、人生っておもしろいなっと感じている。捨てる神あり、拾う神ありで、節目節目に僕らはラッキーなことが起こるのだ。またAUN J クラシック オーケストラの結成秘話もここに残しておきたいと思うので、ぜひお楽しみに!
井上良平
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